この記事のもくじ
まえがき
今回紹介する本
『応援消費の謎 消費・寄付・ボランティア』です。
本書の概要
ここ何年かと言われるとはっきりしないですが「食べて応援」「被災地に遊びに行って応援」みたいなワードをよく目にしたり耳にしたりしないでしょうか?
従来の応援というと一切の見返りを求めない金銭的な寄付であったり、ボランティアとして労働力を提供するというやり方だったのに対して何らかの見返りが発生するという意味で異なります。
本書はこうしたさまざまな「応援」の形について考察しています。かなりボリュームが少なくさっと読める本です。
- 応援消費の広まりと謎
- 日本は寄付を隠す文化
- 贈与のパラドックス
消費はダメで寄付・ボランティアならいいのか??
著者の書きっぷりを見るに応援消費がありかなしかの二元論において中立的なようで否定的な意図を感じます。
本書末尾では「応援消費という存在は、より良い社会を作り出す一つの可能性であるようにもみえる」と言っておきながら、起こりうる一意見と言って「寄付と応援消費は対立する」とか「消費するよりも寄付した方がいい。(中略)そういった議論があってもおかしくはない」とか「なぜ寄付ではなく消費なのか」とかどう考えても
寄付はよくて消費はダメだ
と言いたげです。消費で応援ってダメなんですかね?見返りが発生しないやり方じゃないとダメなんですかね?
他人がする「応援」のあり方に意見はしない
本書ではふるさと納税も取り上げていますが、もしふるさと納税が一切返礼品のない制度だったとして同じくらいの金額が動いたでしょうか?多分動かないでしょう。
例えば金銭的な応援が欲しいとして「寄付」という形にこだわるせいで「消費」よりもお金が集まらないなら本末転倒です。目的は寄付として集めることではなくて1円でも多く集めることなら寄付だろうが消費だろうが手段はどうでもいいはずです(もちろん倫理的・導独的に適合する方法で)。
もっというと他人が誰かのためにお金なり労働力を投じようとしているところに「見返りは求めるなよ」なんていう意見は野暮です。じゃあお前がやれよって。あえて悪くいうと日本人って他人には安い賃金で頑張るとか無償でヒトモノカネを投じさせることを半ば強要するくせに自分からはしようとしません。そんなんで消費を悪くいって寄付をよく言われてもなぁって。
だから本書のテーマに対しての自分の考えは「消費だろうがなんだろうが誰かの応援になるなら大歓迎だし、どしどしすべき」です。寄付という形を取りたければ寄付すればよろしいし消費で応援したければ消費すればよろしい。どんな手段であってもまずはその応援しようという気持ちが尊重されて欲しいですね。