【10年越しの念願】知覧特攻平和会館を訪ねて

はじめに

人生でやりたいことリスト(バケットリスト)、読者さんは作ってらっしゃるでしょうか?自分はちょうど1年前の2021年3月にいくつか設定をしました。

現状まともに進捗しているのは「47都道府県の経県値4以上=宿泊経験あり」ですが、先日その一環で行ってきた鹿児島旅行にて抱き合わせで達成したのが以下の2つです。

  • 砂むし温泉を体験する
  • 知覧の特攻平和会館を訪れる

特攻平和会館は高校生の時の日本史の先生、砂むし温泉は大学生の時に見ていた「水曜どうでしょう」がきっかけで経験したいと思うようになった事柄です。

実に10年以上も期間が空いているのに、この間飽きというか「やっぱり行かなくてもいいや」とは決して思わなかったもので非常にこだわりのあるものです(言い換えるとやっぱりいいやとなった“ある時点でのやりたいことリスト”も存在します・・・)。


今回はそんなやりたいことリストの1つ、知覧の特攻平和会館を訪れての感想をお届けします。なお、鹿児島旅行全般の記録は以下の記事で紹介しています。

【47都道府県制覇】ようやく行けた鹿児島旅行

なぜ知覧が特攻で有名?

知覧は国内で最多の特攻出撃回数

以下、今回訪問した特攻平和会館のHPにある情報です。

ここでいう特攻(正式には神風特別攻撃隊)は沖縄戦に伴う陸軍主導のもので海軍主導のものは除かれています。日本国内から出撃した特攻隊の基地は上の図の通りで、特攻による戦死者は1036名です。

このうち知覧の基地から出撃して戦死された方は402名です。おおよそ半分です。地図見れば一目瞭然で本土の中では一番沖縄に近いからでしょう。

そういうわけで特攻=知覧という印象を持たれている方も多いのではないでしょうか?

知覧にある特攻関連のスポット

もちろん当時のものは残っていませんが、どこどこが何の跡地だったかということがわかるような碑がいくつか設けられています(当時の滑走路や司令部など)。

今回自分は時間の都合で特攻平和会館しか訪れませんでしたが1日まるまる使って探訪する価値は十分あるので2回目くる機会があればぐるっと回ってみようかと思ってます。

訪問しての感想

新幹線で鹿児島中央についてからすぐに知覧行きのバスに乗って約、登坂車線があるようなとんでもない道を揺られること1時間半。

お昼前くらいに到着しました。

ここからは館内に展示されている零戦の機体以外は写真撮影ができないため、文字のみとなりますがご了承ください。

1時間ほど遺品や遺書(と断定していいのか分かりかねますが)、手紙を中心に鑑賞した上で思ったところは以下の3点です。

  1. この時代だからこそ来てよかった
  2. 「死にに行く」ことを受け入れた方々への感謝
  3. 現代にも通じる社会の流れによる表現、意見発信のあり方

この時代だからこそ来てよかった

この時代だから、というのはみなさまご存じのとおりロシアがウクライナに“侵攻”(ロシア側は軍事作戦と言ってますが、当初から言ってること言ってることとやってることが違うのであえて侵攻を強調しました)していることです。

ウクライナと日本は背景が違うものの核を持っていないと言う点、近くに核兵器保有国があるという点では共通しています。

ありがたいことに日本は1945年から70年以上戦争していない状態が続いていますが、その結果今生きている人たちのほとんどは戦争がない状態が普通(もちろんそれが普通であるべきではあるのですが)だと思っている節があります。

ですがこのほとんどの人が当たり前だと思っている状態は太平洋戦争で国のために全てを捧げた方々の上に成り立っていることを知らないでいてはダメだと思うのです。

足るを知る、今ある状態に感謝できるようになります。

「死にに行く」ことを受け入れた方々への感謝

特攻戦死者の方々の衣装や寄せ書きを見ているとほとんどは必ず敵艦を撃沈させる、国に報いる、今まで生き延びてしまっていたがようやく死ぬことができるようになったなどといった(建前上は)前向きな言葉が並んでいますが、その中にも

  • 小さな我が子や奥さんへの言葉
  • 戦争に従事する前に関わっていたもの(例えばと野球選手の遺書にはバットとボールが書かれていました)言い残し

こういったものを見ると、やはり彼らも今の若者が同じように10代や20代なりの考え、やりたいことがありながら戦争のために好きなことを諦め、命を落とさなければならなかったのではないかと思わざるをえません。

そもそもなくなられた方の大半は10代後半や20代前半の方なので学校で学ぶ頃には既に戦時体制が反映されていて、今時のように好きなことをしようと考える風潮はなかったのかもしれません。とすると尚のこと、こういった時代に身を捧げてもらったことに対して感謝せずにはいられません。

自分は高校の時に野球をしていたのですが元野球選手の遺書を見たときには「一瞬でも叶うなら、ぜひ今の真っ白な硬式ボールとバットを見せて、思う存分楽しんでほしい」そう思いました。

現代にも通じる社会の流れによる表現、意見発信のあり方

戦争中に天皇の存在を否定したり軍に逆らっていたら生活できなかったでしょう。上記の遺書も手紙に拝啓や敬具と書くのがお決まりなのと同じように、武運長久を祈るとかお国のために命を捧げてきますと書くのが当たり前のようになっていたのではないかと思うのです。

今だって表現の自由なんていいますが、例えばジェンダーレスを恥ずかしいと思うことなく発信できるようになったのは最近です書類の性別記入にも男女その他なってますよねし、個人個人で自由に発信できるようになったのも然りです。

戦争がない状態が続いていることに加えて、基本言論の統制がないという点も当時と比べた時に幸せなことだと感じました。

あとがき:これからやりたい2つのこと

映画制作のために復元されたものです

いきたいと思ってから10年以上も経過してからのようやくの訪問でしたが、本当に行ってよかったと思いました。これを受けて戦争というものに対しては次の2つの心がけをしていきたいなと思ってます。

  1. 8月15日に戦没者への感謝をする
  2. 時間とお金の許す限り太平洋戦争に関する情報に触れておく

8月15日に戦没者への感謝をする

こういうところを訪問すると「当時の人がもし今を生きていたらどうなるか考えて見なさい」なんていうお告げがきますが、現実問題毎日そういうことを考えるのは無理があります。

結局、その時代時代ごとの社会の中で人格が形成されていく側面があると自分は思っています。

もし戦没者が生き残れたとして定期的に思い返すことはあってもその時々の事情から毎日思い返すなんてことはならないと思います。

全く違う話として「今時の若者は」と言っているかたがゆとり教育の時代に生まれたとして「私はもっと勉強します」となるしょうか、といったらしないでしょう。どの時代も「言われたことだけやった」という点で若者は共通しているのではないでしょうか?


しかし戦没者への敬意を全く示さないのもおかしな話です。だからこそ提唱したいのが終戦日である8月15日くらいは戦没者に対して「あなた方のおかげで現在でも戦争のない日本が続いています」と感謝するということです。年に1度ならできそうですよね。

※勘違いしてほしくないですが決して「死んでくれてありがとう」ではありません。当たり前ですが誰も亡くならずにこうなっていてくれればどんなによかったことか。

時間とお金の許す限り太平洋戦争に関する情報に触れておく

太平洋戦争に関して学べるところは日本各地にあります。

沖縄に行けばひめゆりの塔とか実際に民間人や軍人が逃げ込んだ天然の避難壕などがありますし、広島には潜水艦型の特攻兵器である回天に関する資料館もあります。広島、長崎では原爆の資料を見れますよね。

よく知覧の特攻平和会館については「必ず死ぬ前に見ておいた方がいい」と言われますし自分もそう思いますが知覧以外の上記スポットではダメかといったらそんなことはありません。


人間には2回の死があると聞いたことはないでしょうか?

  • 生物的な死=通常連想する方
  • 社会的な死=その人が生きていたことを完全に忘れ去られる

こういうところを訪ねて当時何があったか知って、伝えていくことは日本のために戦争に関わり、亡くなってしまった方が社会的な死を迎えることがないようにするために戦争を経験しないで済んでいる自分達が果たすべき責任の1つではないでしょうか?

そのためには知らないとお話にならないので、自分は旅行がてらになろうかとは思いますが、これからも時間とお金の許す限り過去の戦争についてきちんと向き合って知っておきたいと思いました。

  • 自分が後悔しない生き方

それがひいてはここにつながると信じて。

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